haritogetogeの日記

自分語り日記

神様は流動的

 

 “私にあたらしい神様買ってよ

         君の神様も見せてよ“

 

 大森靖子の“君と映画“の歌詞だけど、たぶん私たちにはひとりひとりの、その時々の神様がある。

 私は大学生の時、大森靖子を神様みたいに思ってた。大森靖子の曲が、ライブが、私を救ってくれた。その頃、私は学生バンドを組んでドラムを叩いていた。初めての一人暮らしはうまくいかなくて、掃除できないぐちゃぐちゃの部屋で、パックのご飯に生卵をかけて食べて、朝は起きられなくて授業に遅刻して、だめすぎる私にとって、バンドでドラムを叩くことが私を私らしくしてくれた。そこでの人間関係が私を人の形にし続けてくれた。その時の私にとっては、大森靖子が、ドラムが、バンドが、音楽仲間が、神様だった。

 保育士として働いていた時は職場の子ども達が神様だった。きっと子ども達にとっても担任である私は神様の1人だったんじゃないかと思うけど、あの子達がいたから毎日仕事に行けたし、家に帰ってからも明日は何を話そう、何をして遊ぼうと保育士であることを誇りに思えた。週末、居酒屋で飲みながら仕事の愚痴を言うことも含めて、私を社会的な人間の形にしてくれた。

 今の私の神様はなんだろう。現在、私は仕事に行けなくて、毎日の生活もままならなくて、社会的な人間の形は保てていない。周りから見たら、オムツいや!!服イヤ!!とイヤイヤして裸のままふにゃふにゃと1人遊びしてる幼児みたいに見えるだろう。子どもの面倒を見て先生と呼ばれるエプロンを着た社会的大人から、裸ん坊の幼児になってしまった。でもかろうじて人間の形はしている。よかった。溶けてべとべとになったスライムや周りに牙を剥く獣にはなっていない。そうならないように、日々私の神様を大切にする。スーパーで買ってきたかわいい切り花とか、何年も私の暮らしを見つめているぬいぐるみとか、過去に子ども達と楽しんだ絵本とか、一緒にご飯を食べてくれるひとたちとか。