haritogetogeの日記

自分語り日記

天気のいい日の日記

 私の住む地域は冬はいつもどんよりと曇ってしけしけしているが、今日はめずらしく気持ちよく晴れて、カラッとした風が吹いている。折角だから、お気に入りの公園へ散歩に行く。

 

 公園ではそこらじゅうを枯れ葉が走り回っていた。本当に走ってるように見える。かわいい。

 

 小学一年生の時、植物係の子がお花に水をあげ忘れて、先生に怒られた。「お花が喉乾いたよって言ってるよ」それから、そのお花を見るとお花の声が聞こえるような気がした。お花はいつも喉が乾いていた。今朝はお水もらったでしょう。

 

 でかい岩とか木の根っことかでゴツゴツした地面は歩く時にちょっと緊張が走り、わくわくする。そういうところを歩くとき、いつも頭の中で空想が流れ始める。私はいつも少年になる。なんでだろう。

 

 家に帰ったら私に戻った。家には誰もいなかった。誰かに冬の匂いを嗅いで欲しい。

 グラウンドの端から野球のボールが飛んできて、あのボールが誰かに当たったら危ないなあと思いながら歩いていると、必ず私の頭に当たる。子どもの頃からそういう人生だった。

 

 生まれた途端救急車で運ばれて入院。毎年毎回、遠足は雨が降る。卒業式に大地震が起きる。旅行に行けば乗り物酔いで吐き、酔い止め飲めば、錠数を間違えてオーバードーズで逆に酔う。高校入学式翌日に水疱瘡にかかり、2週間欠席。グループができた頃に友達ゼロで登校する。

 

 小学校高学年の時、自分のことが信じられなくなった。自分の身に何が起こるかわからない。素っ裸で登校しちゃったらどうしよう。学校に行くまでの間、狂ったように自分が普通であるかどうかずーっと確認していた。

 

 高校の電車通学時、人の目が怖くて汗が止まらなかった。気づくと顔から首から手までもが真っ赤になっていた。意識すればするほど汗も赤面も止まらない。そんな人周り見ても一人もいない。なんで?なんで私だけ?それは多分私だからだろうな。

 

 私は普通だけど普通じゃなかった。こうなったら嫌だなと思うことが、私には起こる。今でも、パートのレジ打ち中、急に体が震えて止まらなくなる。顔から手まで真っ赤になる。仕事休みたくないなと思っても、体が動かなくて呼吸がうまくできなくて、休んでしまう。

 

 私は障害者になった。生まれた時からそうだった。

 

 なんで私が??なんで?岸見一郎氏・古賀史健氏の「嫌われる勇気」を読んだ。アドラー心理学というらしい。

 

“あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの“

 

  この考え方が私にグサリと刺さってしまった。生まれた途端救急車で運ばれたのも、人前で発汗震え赤面するのも、人に迷惑かけたくないのに仕事を休んでしまうのも、私が選んだ望んだことなのか?私は本当は仕事したくないし、人と関わりたくないし、そもそも生まれてきたくなかったんじゃないのか。死にたいと思うのは病気のせいじゃなくて、本当に死にたいからなのか?死んだら全部解決するのかな。

 

 多分私は解釈が間違っている。それこそ解釈したいように解釈している。物事の本質に気づくのが怖いから、死ぬとかなんだとか言って逃げてるんだろう。でも私に刺さってしまった、全部“自分が選んだことだ“というのが抜けない。きっと前世の自分が普通じゃない人生を望んだんだ。私の前世はさぞかしつまらない普通の人生だったんだろうな。どうだ?前世の自分、これで満足か??

 

 グラウンドの端から飛んできたボールが、何年も何回も私の頭に当たり続けている。あと何年生きたら、ボールをキャッチすることができるだろうか。とりあえずグローブ買ってこよう。

散歩最強説

 散歩は最強だと思ってる。娯楽としても、健康法としても、ひとりの時間の過ごし方として最強だ。

 

 子供の頃から運動嫌い、出不精、自律神経よわよわ精神不安定人間の私にとって1番ちょうど良くて最強なのが散歩だ。何度かランニングに挑戦したし、ランニングハイになった時が気持ちよくて好きだったのだが、どうも続かない。しばらく日が空くと、次に走るのが億劫になってしまうランニングに対して、散歩は気軽にできるのでいい。

 

 自律神経や精神の状態が崩れて、家から出て人に会うのが難しい時は、日が傾いてから散歩に出かけるのがいい。初めのきっかけは、ちょっと空を見るだけ、ちょっと夜の匂いを嗅ぐだけとかでいい。ちょっとだけですぐに帰ってもいいんだけど、大抵の場合、久しぶりの外気の気持ちよさ、薄暗くて顔が見えない心地よさでもうちょっと歩くかってなる。どこまで行っても、どこで引き返してもいいのが散歩の魅力だ。

 

 散歩してる時は何かを考えても、何も考えなくてもいい。自由な時間だ。家にこもっていると、どうしても意識が内面に向き、辛い時は辛さが増す。意識を外に向けるためにテレビやスマホで刺激を求めて、現実逃避に疲れてしまう。自由なようで不自由だ。散歩している時は、意識の向きが自然に切り替わる。自分で自分の内面をのぞいてコントロールしようとしなくても、自然でいられる感じがする。心が解放される。自然で自由。それが気持ちいい。

 

 自分が大丈夫か、明日仕事に行けるか、人と会ってしゃべれるか、普通に振る舞えているか、ニコニコできているか、いつも自分の中を覗いて、客観視しようとして、人として大丈夫か確認しながら生きる日々。そんな日々に疲れたら、ひとりっきりの散歩が最強です。

生活感とおしゃれ

 

 生活感が好きだ。所謂おしゃれな店や部屋は生活の痕跡がうまく隠されているけど、味気ないなって思う。

 

 近所のハンバーガー屋さんはアメリカンダイナー風の店内にでかいバイクが置かれ、古い車のフィギュアが飾られていて、おしゃれだけど何だか落ち着かない。カウンターの椅子高いし。でも一箇所だけ、隙を見つけた。カウンターの奥、換気のためか勝手口の扉が少し開いていて、外にタオルが干してあるのが見える。完璧な店内と扉の隙間から見えるタオルのコントラストにくらくらした。

 

 私は部屋を片付けられない。しまってしまったら見えないから不安だ。全部見えてるのがいい。クローゼットの扉も常に開け放している。だって気に入っている服がいつでも目に入ったら嬉しいし、自分の持ち物が見えると安心する。雑多で、生活感溢れる部屋が好きだ。

無題

 仕事が忙しくつらくて、でも頑張れていた頃、気持ちも体もいつも外を向いていた気がする。家に篭ったり意識を内側に向けたりすると、気づきたくないことに気づきそうで嫌だった。いつも外を見ていたかった。

 

 新年度が始まったばかりの4.5月は仕事の後、いつも川に行っていた。草の上に座って、水の音を聞いたり川の向こうのマンションに灯る明かりが部屋ごとに色が違うのを眺めたりしていた。しばらく心をしんとさせたあと、明日の仕事のことを考える。私に優しい空間で考えればいいアイデアが浮かんできっとうまく行くような気がした。これできっと明日はうまく行くと言い聞かせながら、体が冷え始めた頃、家に帰った。

ヤマザキのみたらしだんご

 ヤマザキの3本入りのみたらしだんごを食べると、実家で暮らしていた頃を思い出す。父、母、私の3人暮らしだから、3本のだんごがちょうどいい。私はいつも1番に真ん中のだんごをとる。みたらし餡が1番よくかかっていそうだからなのか、食卓で座るポジションからか、理由はもう覚えていないが、私が真ん中のだんごを食べるのが習慣だった。

 

 実家を出てからも時々食べたくなる、ヤマザキのみたらしだんご。つい真ん中から食べようとして、もう大人だから端から食べる。ちょっと寂しい。私もいつか、誰かに真ん中を真っ先に取らせてあげたい。

 

 ヤマザキのみたらし団子を食べるたびになんだか切なくなる。子どもの私が実家の真ん中にいたことを実感して泣きそうになる。

誰かを憑依させなくても

 誰かを憑依しなくても働けたらいいのにな。きっと誰もが何枚かの仮面を持っていて、場面によって被り分けながら上手くやっているのだと思うけど。仮面を被り分けている、ことにちゃんと自覚を持てていればいいのだ。自覚があれば、仮面を脱いで素面で休むことができる。自覚がないと、なんで息苦しいのか気づかずに、どんどん新しい仮面を重ねてかぶって、どんどん息ができなくなってしまう。

 

 仮面をかぶった自分を素面だと勘違いしていたら、どんどん苦しくなってしまった。仮面をかぶっていてもそれは偽物ではないのだ。嘘じゃないし、本音も含まれているから仮面だと気付きにくい。

 

 仮面に気付けないで自分の意思で脱げないのだとしたら、それはもう憑依だ。仮面は自分だけど、憑依は誰かだ。私は自分として生きたいから、仮面をかぶったり脱いだりする練習をする。