haritogetogeの日記

自分語り日記

もう1人いる気がする

 最近はないけれど、学生時代、友達と遊んだ時などによく感じていた感覚、“もう1人いる気がする“。例えば、友達数人で家に集まって映画を見ている時、友達とレンタカーを借りて遠出している時、飲み会後に外に出て次の店へ移る時、恋人が泊まりにきた時。一緒に過ごしている人が2人でも10人でも、プラス“もう1人“がどこかにいるような気がしてしまう。その“もう1人“は誰かはわからない。頭の片隅で「あれ?まだもう1人いるのに置いてっちゃうの?」「1人足りないけどどこ行ったんだろう」とぼんやりと思う。それを誰だろうと思い出そうとすると、思い出せなくて“もう1人“なんていないんだと気づく。

 

 初めてひとり暮らしをしてからしばらくは天井裏にもう1人誰かが住んでいるんだと思っていた。実家にいた頃はいつでも母親が家にいたため、家に自分1人しかいないことに違和感があったんだろう。ひとり暮らしに慣れると天井裏のもう1人はいなくなった。

 

 “もう1人いる“感覚は不思議と怖い感じはしない。人に話すと怖がって共感してくれないけど。こういう感覚に何か名前がついてるんだろうか。この“もう1人“って誰なんだ。

 

 “もう1人“はイマジナリーフレンドのようなものなのか。私はもういい大人なのにまだ幼児期のアニミズムを引きずっていて、可愛がっているぬいぐるみ、大事にしている生活の道具には魂が宿っていると思っている。また、アニメやドラマや小説など、物語にハマると、登場人物が普段から私たちの近くにいるような気がする。それらを広義のイマジナリーフレンドとしてみる。でも、私のイマジナリーフレンドたちはちゃんと姿があるし、物質として家の中や物語の中に存在していて、私の交友関係に勝手についてきたりしない。それぞれにちゃんと性格や意思があって頭の片隅で考えるぼんやりとした“もう1人“とは違う気がするのだ。 

 

神様は流動的

 

 “私にあたらしい神様買ってよ

         君の神様も見せてよ“

 

 大森靖子の“君と映画“の歌詞だけど、たぶん私たちにはひとりひとりの、その時々の神様がある。

 私は大学生の時、大森靖子を神様みたいに思ってた。大森靖子の曲が、ライブが、私を救ってくれた。その頃、私は学生バンドを組んでドラムを叩いていた。初めての一人暮らしはうまくいかなくて、掃除できないぐちゃぐちゃの部屋で、パックのご飯に生卵をかけて食べて、朝は起きられなくて授業に遅刻して、だめすぎる私にとって、バンドでドラムを叩くことが私を私らしくしてくれた。そこでの人間関係が私を人の形にし続けてくれた。その時の私にとっては、大森靖子が、ドラムが、バンドが、音楽仲間が、神様だった。

 保育士として働いていた時は職場の子ども達が神様だった。きっと子ども達にとっても担任である私は神様の1人だったんじゃないかと思うけど、あの子達がいたから毎日仕事に行けたし、家に帰ってからも明日は何を話そう、何をして遊ぼうと保育士であることを誇りに思えた。週末、居酒屋で飲みながら仕事の愚痴を言うことも含めて、私を社会的な人間の形にしてくれた。

 今の私の神様はなんだろう。現在、私は仕事に行けなくて、毎日の生活もままならなくて、社会的な人間の形は保てていない。周りから見たら、オムツいや!!服イヤ!!とイヤイヤして裸のままふにゃふにゃと1人遊びしてる幼児みたいに見えるだろう。子どもの面倒を見て先生と呼ばれるエプロンを着た社会的大人から、裸ん坊の幼児になってしまった。でもかろうじて人間の形はしている。よかった。溶けてべとべとになったスライムや周りに牙を剥く獣にはなっていない。そうならないように、日々私の神様を大切にする。スーパーで買ってきたかわいい切り花とか、何年も私の暮らしを見つめているぬいぐるみとか、過去に子ども達と楽しんだ絵本とか、一緒にご飯を食べてくれるひとたちとか。

 

感情だだ漏れな日々

 最近、感情がとめどなく溢れ漏れている。最初に気付いたのは涙。なんでもかんでもすぐに泣く。テレビ見て泣き、本読んで泣き、漫画読んで泣き、音楽聴いて泣き、YouTubeの広告で泣く。別に感動するシーンじゃなくても泣く。普段の感覚でいうと、なんかいいな、これ好きだな、程度の感情で涙が抑えられない。ただ悲しくなって泣くことも1日に何度もある。逆にうれしくて笑いが止まらないこともある。こわい。

 でも、涙や笑いが素直に漏れ出てくるのは気持ちがいい。つらくても泣けない、嬉しくても笑えないよりずっといい。こう言う変化をどうにかしようとしたり、メンタルの波として考えすぎるのは嫌だから、ただの状態として静観しておこう。

散歩の話・住居について

 散歩ってほんとにほんとにすばらしい。歩くだけで楽しいんだからお得だし、自由度が高くて、ルールがないのもいい。音楽を聴きながら歩くのが楽しい人もいれば、写真を撮るのが楽しい人もいる。散歩愛好家の人たちがどんな観点でどんな風に楽しんでるのか、散歩談義や散歩座談会をしてみたい。同じ道を散歩しても人によって見えるもの、面白いものが違うはずだ。きっと面白い。

 私は歩きながら建物を見るのが好きだ。マンションは同じ形の窓やベランダが、規則的に並んでいるのが本当に美しい。散歩圏内外に推しマンションがいくつかある。小さなアパートの名前も好きだ。ハイツとかハイムとかメゾンとかコーポとか、、、なんとも言えないノスタルジックさとかわいさがある。古いものだと建物の色味も独特で、メルヘンなピンクや黄色や緑だか水色だか定義しにくい色だったりする。

 戸建の家はまた違った良さがある。庭っていいよね。土地を家を大切にして生活してるんだなと思う。植物があまり多くないのに、いつ見てもスズメが集まっている庭がある。一生懸命地面を啄んでるけど、何食べてるんだろう。

 私は生活が好きだから、散歩が好きなのかもしれない。人の生活が好きだから、住宅街が楽しい。生き物の生活が好きだから、鳥の鳴き声がしたら見つけようとうろうろしてしまう。自分自身の生活は適当なくせに。